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知識とは何を満たす信念なのか

知識を、関連する問いと立場の中で解説する。

まず知っておきたい要点

詳細解説

## 知識とは何か――単なる「正しい信念」との違い 哲学でいう「知識」は、単に何かを知っている状態を漠然と指すだけではない。とくに認識論では、「ある人が、ある命題を知っているとはどういうことか」が分析の対象になる。 たとえば「明日は雨が降る」と思っていた人が、たまたま予想を当てたとする。その信念が実際に正しかったとしても、根拠が単なる勘でしかなければ、通常それを「知っていた」と呼ぶことには抵抗がある。知識には、信念が真であること以外にも何らかの条件が必要だと考えられるからである。 古くから議論の出発点として用いられてきたのが、知識を「正当化された真なる信念」と捉える分析である。英語では justified true belief と表現されるため、しばしばJTB分析と呼ばれる。 この考え方では、ある人Sが命題Pを知っているために、少なくとも三つの条件が必要だと考える。 第一に、Pが真でなければならない。実際には地球が球形であるのに、「地球は平らだ」と確信している人がいたとしても、その人が地球の形を知っているとはいえない。 第二に、その人がPを信じていなければならない。ある事実について本人がまったくそう思っていないなら、その事実をその人の知識と呼ぶことは難しい。 第三に、その信念が適切に正当化されていなければならない。証拠、観察、推論などによって、その信念を持つことに十分な理由がある必要がある。 つまり伝統的な分析では、知識は「真であり、本人が信じており、その信念に適切な根拠があること」によって成立すると考えられる。ただし後に、この三条件だけでは知識を十分に説明できない可能性が指摘されることになる。 ## 「知識」という語は誰がどのように使うのか 知識という語は、日常語と哲学ではかなり幅広く使われる。さらに哲学の内部でも、何を知識として分析しているかによって意味が異なる。 認識論で典型的に扱われるのは「命題的知識」である。「東京は日本の首都であることを知っている」「水が水素と酸素からなることを知っている」といった、「~であることを知っている」という形式の知識である。 これに対して、「自転車の乗り方を知っている」「ピアノの弾き方を知っている」のような能力に関係する知識は、「方法知」や「技能知」と呼ばれる。ある人が自転車の運動を物理学的に説明できなくても、実際に上手に乗れるなら、自転車の乗り方を知っているといえる。この種の知識を命題的知識だけで完全に説明できるかどうかは別の問題になる。 さらに、「その人を知っている」「京都をよく知っている」といった表現には、対象への親しみや経験という意味も含まれる。したがって、哲学における「知識とは何か」という問いが、日常語で知識と呼ばれるすべてのものを一つの定義に押し込もうとしているとは限らない。 哲学者の立場によっても重点は異なる。ある立場は、信念を支える証拠や理由を重視する。別の立場では、本人が説明可能な理由を持っていることより、信念が信頼できる認知過程によって形成されたかどうかを重視する。また、「知識」を他の概念へ分析すること自体に限界があるとして、知識をより基本的な概念として扱おうとする考え方もある。 そのため、「知識とは正当化された真なる信念である」という説明は、認識論全体の最終的な合意ではなく、重要な出発点と理解するのが適切である。 ## 知識概念の成立と伝統的分析の変遷 知識をめぐる問題は古代ギリシア哲学にまでさかのぼる。プラトンの対話篇では、知識と真なる判断の違いや、真なる判断に何を加えれば知識になるのかが検討されている。ただし、現代の「正当化された真なる信念」という三条件を、そのままプラトン自身の完成した定義として帰属させるのは慎重であるべきである。 近世哲学では、デカルト、ロック、ヒュームなどを通じて、人間の信念がどこまで確実なのか、経験や理性はどのような知識を与えるのかという問題が中心的に論じられた。そこでは単なる信念と確かな認識を区別するため、証拠や確実性の条件が大きな問題となった。 20世紀の分析哲学では、「SはPを知っている」という文が成立するための必要条件と十分条件を明確にしようとする研究が盛んになった。その文脈で、真理・信念・正当化という三条件による分析が標準的な出発点となる。 ところが1963年、エドマンド・ゲティアが短い論文で、この三条件を満たしているように見えても知識とは呼びにくい例を提示した。これが後に「ゲティア問題」と呼ばれる。 典型的な構造を簡略化すると、ある人が十分な証拠にもとづいてPを信じたものの、その証拠の一部に偶然の誤りが含まれていたとする。それでも別の偶然によってP自体は真だった場合、その人は「正当化された真なる信念」を持っているように見える。しかし、その真理への到達が幸運に依存しているなら、本当に知識と呼んでよいのかという疑問が生じる。 ゲティア問題以後、知識論の焦点は「三条件が必要か」だけでなく、「三条件に何を加えれば偶然に真になった信念を排除できるか」へと広がった。 ## 関連する概念と対立する考え方 知識を理解するためには、信念、真理、正当化という関連概念を区別する必要がある。 「信念」は、人が何かを真だと受け入れている状態を指す。信念そのものは真である必要がない。人は誤ったことも信じられるからである。したがって知識は、少なくとも通常の理解では、信念より狭い概念になる。 「真理」は、信念の内容が実際に成り立っているかに関係する。知識には真理が必要だとする考えは広く共有されている。後になって誤りだったと分かった事柄について、「以前は知識だったが今は偽になった」というより、「知っていると思っていたが、実際には知らなかった」と説明する方が自然だからである。 「正当化」は、なぜその信念を持つことが合理的なのかに関係する。ここからさらに、正当化とは本人がアクセスできる理由なのか、それとも外部から見て信頼できる認知過程であればよいのかという対立が生じる。 後者の方向を代表する考え方の一つが信頼性主義である。たとえば正常な条件で視覚が高い割合で真なる信念を生み出すなら、本人が視覚の信頼性について哲学的説明をできなくても、それによる信念は知識になりうると考える。 また、ゲティア問題への対応として、知識には単なる正当化だけでなく「認識的な幸運が存在しないこと」が必要だと考える立場もある。真であることが偶然にすぎない信念を知識から除外しようとする考えである。 懐疑論との関係も重要である。懐疑論は、「私たちが知識だと思っているものは、本当に十分な根拠を持っているのか」と問い直す。夢を見ている可能性、知覚が全面的に欺かれている可能性などを排除できなければ知識は成立しないと考えるなら、日常的知識の多くが危うくなる。これに対し、知識にはすべての論理的可能性を排除するほどの絶対的確実性は必要ないとする考え方もある。 ## 伝統的な知識分析への批判 最も有名な批判はゲティア問題である。正当化・真理・信念の三条件すべてが満たされても、信念が偶然に真になっただけなら知識とは呼びにくい。この指摘によって、三条件が知識の十分条件であるという単純な見方は大きく揺らいだ。 そこで「信念が偽の前提に依存していてはならない」という条件を加える提案がなされた。しかし、偽の前提を明示的に含まない形でもゲティア型の例を作れるため、それだけで問題が解決するとは限らない。 別の方向では、「真理との適切な因果関係」を要求する考えがある。たとえば「目の前に犬がいる」と知るためには、実際の犬の存在が、その人の知覚と信念を適切に引き起こしている必要があるという発想である。しかし数学や一般的知識など、単純な因果関係として説明しにくい知識をどう扱うかという問題が残る。 信頼性主義にも批判がある。ある信念形成過程がどれほど信頼できれば知識になるのか、どの範囲でその過程を分類するのかが難しい。視覚という大きな分類では信頼性が高くても、「薄暗い場所で遠くの対象を見る視覚」という細かな分類では信頼性が低いかもしれない。 さらに、そもそも知識を必要十分条件の一覧に分解できるのかという疑問もある。現代の認識論では、知識を他の概念から構成するのではなく、知識そのものを基本概念として理論を組み立てる立場も存在する。 ゲティア問題が重要なのは、単に昔の定義を否定したからではない。それは「良い理由を持ち、しかも正しいことを信じているなら、なぜそれだけでは知識にならない場合があるのか」という問題を明確にした点にある。 知識を単なる真なる信念から区別するには、偶然ではなく、何らかの適切な仕方で真理に到達している必要があるように思われる。しかし、その「適切な仕方」を正当化、信頼性、因果関係、能力、反事実的条件などのどれによって説明するべきかについては、現在まで一つの答えに統一されていない。知識という身近な概念は、その意味を厳密にしようとすると、真理・合理性・証拠・偶然性という認識論の中心問題へつながっていく。

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公開・改訂情報

公開: 2026-08-18T07:26:29.078Z / 改訂: 2026-08-18T07:26:29.078Z (created from accepted generator ledger)