concept / Free will
自由意志
自分の行為を自分の仕方で選び、統御しているという能力または条件。
まず知っておきたい要点
- definition 行為を選び統御する能力・条件。
- original_terms free will
- translation_notes 文脈により意志の自由とも訳す。
- history 近世以降に中心問題となった。
初心者向け解説
自由意志は立場ごとに異なる意味で使われる。
詳細解説
## 定義 自由意志とは、人間が自らの意志によって行為を選び、その選択について一定の意味で「自分がした」と言える能力を指す哲学上の概念である。日常語では、「強制されずに自分で決めること」という程度の意味で使われることが多い。しかし哲学では、何をもって自由とするかによって複数の立場が成立する。 典型的な問いは、「ある人が実際にはAを選んだとき、その人は本当にBを選ぶこともできたのか」である。もし世界のすべての出来事が、それ以前の状態と自然法則によって完全に決定されているなら、本人が別の選択をする余地はあったのだろうか。この問題が、自由意志と決定論をめぐる論争の中心にある。 ただし、自由意志を「同じ状況で別の行為も可能だったこと」と定義する必要はない。自分の欲求や価値判断に従って行動できることを自由と考える立場もあれば、行為の原因が最終的に本人自身に由来することを重視する立場もある。そのため、「自由意志は存在するか」という問いに答える前に、どのような自由を問題にしているのかを明確にしなければならない。 自由意志が重要なのは、それが道徳的責任とも密接に結びついているからである。誰かの行為が完全に本人の統制を離れたものなら、その人を非難したり称賛したりすることには疑問が生じる。逆に、本人が自分の理由に基づいて行動したのであれば、たとえその行為にも原因があったとして、責任を認められるのではないかという考え方もある。 ## 使用者によって異なる「自由」の意味 自由意志という言葉は、哲学者によってかなり異なる意味で用いられてきた。大きな違いの一つが、「他行為可能性」を重視するか、「自己統制」を重視するかである。 第一の理解では、自由であるためには「別のこともできた」ことが必要になる。たとえば、ある人が約束を守ったとき、まったく同じ状況でも約束を破ることが可能だったのでなければ、その選択は本当の意味では自由ではない、と考える。この理解を強く採用すると、すべての出来事が過去から必然的に決まっているという決定論との両立は困難になる。 第二の理解では、重要なのは選択肢が形而上学的に複数存在したかではなく、その行為が本人の欲求、信念、価値判断などから生じたかどうかである。脅迫されて財布を渡した場合と、自分の判断で寄付した場合には、たとえ双方の行為に原因が存在していても自由の程度に違いがある。このような考え方は、自由意志と決定論の両立を認める「両立論」と結びつきやすい。 さらに、自由意志を「自分が望んでいることをする能力」だけでなく、「自分がどのような欲求に従いたいかを反省できる能力」として捉える議論もある。ハリー・フランクファートは、人間が単に欲求を持つだけではなく、自分の欲求そのものを評価できることに注目した。たとえば「煙草を吸いたい」という欲求がありながら、「その欲求に支配されたくない」と考えることができる。このような高次の欲求と実際の行為との関係から、人格的な自由を説明しようとするのである。 このため、自由意志論では「自由」という一語が、選択可能性、強制の不在、自己統制、理由への応答、行為の起源など複数の性質を指している。論争が長く続いている理由の一つは、単に同じ問いに違う答えを出しているだけでなく、何を自由と呼ぶべきかについても対立していることにある。 ## 成立と変遷 自由意志をめぐる問題には古代以来の前史がある。古代ギリシア哲学では、すでに人間の行為が運命、自然、性格、知識などによってどこまで規定されるのかが論じられていた。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、自発的な行為と非自発的な行為を区別し、称賛や非難が成立する条件を検討している。ただし、現代哲学とまったく同じ形の「自由意志問題」がそのまま存在していたとみなすのは単純化になる。 その後、キリスト教思想において自由意志は新たな重要性を持った。神が全知であり世界を支配しているなら、人間はどのように自由でありうるのか。また、悪が存在するとき、その責任を神ではなく人間に帰すことはできるのか。アウグスティヌスなどの思想では、自由な選択と罪、恩寵、神の摂理との関係が大きな問題となった。 近代になると、自然界を因果法則によって説明する見方が強まり、問題は「自然法則に従う世界の内部で人間だけが自由でありうるのか」という形を取るようになる。スピノザは、人間が自分を自由だと思うのは自分の欲望を意識している一方、その欲望を生じさせた原因を知らないからだと論じた。これに対してカントは、自然現象としての人間は因果法則に従う一方、道徳的主体としての自由を別の観点から考えようとした。 近現代では、論争は「決定論が真なら自由意志は存在するか」という問題を中心に整理されるようになった。自由と決定論は両立すると考える両立論、両立しないと考えたうえで自由を擁護するリバタリアニズム、両立しないうえ決定論などから自由意志を否定する立場などが区別される。 さらに20世紀以降は、道徳的責任そのものを分析する議論も発展した。フランクファートは、別の行為ができなかったとしても責任を負いうるように見える事例を提示し、「他行為可能性」が責任の必要条件なのかを問い直した。また、P・F・ストローソンは、責任を純粋な形而上学の問題だけとしてではなく、怒り、感謝、赦しなど、人間関係のなかで生じる態度との関係から考察した。こうして自由意志論は、世界の因果構造についての論争だけでなく、人間を責任ある主体として扱うとは何かという問題へ広がっている。 ## 関連・対立概念 自由意志と最も直接的に関係する概念は決定論である。決定論とは、大まかには、ある時点の世界の状態と自然法則が定まれば、その後の出来事も一意に定まるという考え方である。重要なのは、決定論と「予測可能性」は同じではないという点である。人間が未来を予測できなくても、世界そのものが決定論的である可能性はある。 自由意志と決定論は両立しないと考える立場は「非両立論」と総称できる。そのうち、決定論が真であっても偽であっても何らかの強い意味での自由を擁護する方向がリバタリアニズムである。政治哲学における同名の「リバタリアニズム」とは別の用法なので注意が必要である。自由意志論のリバタリアニズムでは、人間の行為が過去と自然法則だけによって完全には決定されないことが重視される。 これに対して両立論は、決定論が真であっても自由意志は存在しうると考える。重要なのは「原因を持たないこと」ではなく、適切な種類の原因によって行動することだと考えるのである。自分自身の理由や価値観に基づいて行動できるなら、その行為が因果的に説明可能であっても自由でありうる。 もう一つの関連概念が道徳的責任である。自由意志と道徳的責任をほぼ一体として扱う議論もあるが、両者を分ける立場も存在する。「別の行為が可能だったか」と、「その行為が本人の判断や性格を適切に表しているか」は異なる問題だからである。 また、偶然性も自由とは区別しなければならない。決定論を否定して、ある選択が確率的に生じたとしても、それだけでは自由が成立したことにはならない。脳内で偶然の出来事が起こり、それによって右か左かが決まったとしても、その偶然が本人による統制を増やしたとは限らない。この「決定されていなければ自由になるわけでもない」という問題は、リバタリアニズムが直面する重要な課題である。 ## 批判 自由意志に対する代表的な批判の一つは、すべての行為に十分な原因があるなら、最終的に本人が行為を選んだとは言えないのではないか、というものである。ある人の性格が遺伝、教育、経験、社会環境などによって形成され、その性格と状況から選択が生じるなら、その人自身は自分の性格を最初から選んだわけではない。この点から、究極的な自己決定は不可能だと論じることができる。 一方、決定論から逃れるために偶然性を導入しても問題は残る。行為が過去によって決定されているなら自由ではなく、偶然によって決まるならそれも本人の統制ではない。この「決定か偶然か」という二者択一は、非両立論的な自由意志に対する強力な批判として繰り返し現れる。 両立論に対しては、「自由」という言葉の意味を弱めすぎているという批判がある。本人の欲求に従って行動したことだけを自由の条件とするなら、その欲求自体が外部から操作された場合にも自由だということになりかねない。洗脳や巧妙な心理操作によって形成された欲求に従う人物を、通常の場合と同じ意味で自由だと呼べるのかという問題である。そのため現代の両立論では、単なる欲求の充足ではなく、理由に反応する能力や、欲求が形成された過程などを条件に加える議論がある。 また、脳科学や心理学の研究から自由意志を否定できるのではないかという議論もある。人が意識的に決断したと報告するより前に、脳活動に一定の変化が観測されるという実験は広く知られている。ただし、その結果から「自由意志は存在しない」と直接結論できるかについては議論がある。実験で測定されている行為の種類、意識的決定の時点の測定方法、自由意志の定義などについて解釈の余地があるからである。 結局、自由意志論の難しさは、「行為に原因があること」と「行為が自分のものであること」をどのように両立させるかにある。原因から完全に独立した主体を想定すれば、その主体が自然界のなかでどのように行為を引き起こすのかが問題になる。しかし、因果関係の一部として人間を理解すれば、今度はどのような因果過程を「自由」と呼べるのかを説明しなければならない。 そのため自由意志は、単純に「存在する」「存在しない」と答えれば終わる概念ではない。別の行為が可能であること、自己統制すること、理由に基づいて行動すること、行為の起源になること、責任を負えることなど、複数の問題が重なっている。自由意志を考えることは、人間が自然界の一部でありながら、どのような意味で「自分の行為の主体」でありうるのかを問うことなのである。
専門的論点・解釈上の注意
定義の選択は結論を先取りしうる。
関連する問い・人物・概念・著作等
この項目から
この項目へ
原典・参考文献
- reference_work Stanford Encyclopedia of Philosophy, Free Will
公開・改訂情報
公開: 2026-08-18 / 改訂: 2026-08-18T07:26:29.078Z (production body integrated from accepted generator record)